●1956年(昭和31年)の晩秋、「いとこ」の兄ちゃんから、土産に貰った「トンボのハーモニカ」が、私が手にした初めての楽器だった。

垣生小学校の2年生の時だった。うれしくて、毎日朝から晩まで「ビービー」吹いていたら、「うるさい!」と父親によく叱られた。

学校では、出来の悪い「ワルガキ」だったので、いつも先生から叱られていたが、「荒城の月」を吹いたときには、この怖いおなご先生にも褒めて頂いた。


●4年生の時に、初めて「リコーダー」を吹いた。リコーダーは、合唱の時、どっかのお姉さんに貰ったものだった。

美人で、ピアノも声楽も得意な、担任の高橋先生の推薦で、初めて合唱コンクールのメンバーにも選ばれた。先生は、ピアノを弾きながらよく歌の特訓をしてくれた。


   

   小学4年の時のクラス写真。前列中央は高橋先生。私は2列目左端。
   前列右から2番目の子が、初恋の彼女。



●中学生のころは、音楽教室にあったアコーディオンやホルンハーモニカでよく遊んだ。

合唱コンクールには、毎年先生からの声が掛かり、 3年生の時には、今は無い母校の校歌も出来て、家にテレビが来た頃、猿飛佐助が「草笛」を吹くシーンも見た記憶がある。

がり勉にて頑張った為か?、卒業式では、教育委員会賞を頂いてしまった。


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●高校生になって、音楽も、美術も、好きだったので、選択科目としてどちらを取るか迷ったが、結局は音楽を取った。

音楽担当の老教師(井上先生)は、野球部の顧問もしておられ、「鬼より怖い」、と皆に恐れられていたが、不思議と私は目を掛けて頂いた。

先生は、書道も達人で、毎年、大学合格者の木札短冊を書かれており、「お前のも書いたるけん、頑張れよ」と励ましてくれたりもした。

受験のため、「合唱部」にも「ブラスバンド部」にも属していなかったが、先生は、折りあるごとに声を掛けてくれた。

部員でも無いのに、野球部の応援では、「スーザフォン」を吹かせて貰ったり、歌劇「手古奈」では、「鈴石」役をもさせて頂いた。

ブラスバンド部の先輩達から、クラリネット、サックス、トランペット、コントラバス等々、いろいろな楽器の手ほどきも受けた。


大学受験は、これまで先輩のいない、国立一期の「宮崎大学」に、何とか合格して、井上先生に合格者の木札短冊も書いて貰うことが出来た。 (1967年春)

翌年、8人の後輩達が受験に来た。

試験が終わった日、全員を間借りの部屋に連れて来て、カレーライスを作って振舞い、狭い部屋に雑魚寝させ、労をねぎらった。

合格発表の日、後輩たちの入学を期待したが、一人も居なく、結果は全滅だった。 (倍率は8倍位だったかな?。・・・)

『・・・む・・・、残念・・・だった。』



    

 

   ↑【ファイフ(ヤマハ)】
          

 

高校時代に買ってから、捨てられなくて、ずーっと持っていたが、孫の和音が、欲しいと言って持って帰った。
                     

  ↑【オカリナ(ブッポーソー)】
          

 

アケタのF管も追加購入したが、なぜかオカリナは殆んど吹かなかった。相性が悪い?
                     


   草笛音楽の楽しみ     宮崎大学時代〜

   楽器の思い出(1)初めての楽器・中学、高校時代


今まで親しんできた、いろいろな楽器、・・・「思い出」とともに、・・・
ご紹介したい。
                     


● 初めての楽器